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【CxOキャリア】竹内在氏のキャリアストーリー

作成者: CxO MAGAZINE編集部|2025/06/17 3:00:00

CxOキャリアストーリー022

30代は外資IT,40代は上場,50代は会社の成熟。テーマを掲げ実現、挑戦し続ける竹内氏の過去・今・未来。

CxO キャリアサマリー

竹内 在 氏
セレンディップ・ホールディングス株式会社 代表取締役社長兼CEO

  • 1994年 ニフティ㈱ 入社
  • 1999年 ㈱東海総合研究所(現:三菱UFJリサーチ&コンサルティング㈱) 入社
  • 2001年 SAPジャパン㈱ 入社
  • 2006年 日本オラクル㈱ 入社 マーケティング本部長就任
  • 2011年 シンプレクス㈱ 入社 執行役員就任
  • 2014年 同社 代表取締役社長 就任(現任)

CxOのキャリアを選んだきっかけや背景は?

竹内氏:もともと、経営者になりたいという思いはありました。 というのも、子供の頃、両親から曾祖父の話をよく聞かされて育ったんですね。曾祖父は竹内明太郎という名前で、経営者であり、政治家でもありました。多くの事業を手掛けていたのですが、その一つがコマツ(株式会社小松製作所)です。 彼はもともと炭鉱や鉱山を経営していて、その周辺産業も手がけていました。鉱山開発に必要な機械、つまりブルドーザーやショベルカーといったものが、コマツ創業のきっかけになりました。 他にも、「DATSUN(ダットサン)」という自動車がありますが、もともとは出資者の名前を取って名づけられた名称なんです。D・A・Tは田さん、青山さん、竹内の頭文字で、曾祖父がその出資者でした。そうしたルーツの影響で、幼少期から「経営」や「大きな変革を起こすこと」への興味が自然と芽生えていました。 大学はアメリカに留学し、マネジメント学部マーケティング学科を専攻しました。経営学を選んだのも、そうした背景が影響したからです。 日本に帰国して初めて就職したのが、インターネット・プロバイダのニフティです。希望して入った部署は経営企画部で、そこが私のキャリアのスタート地点でした。

インターネット黎明期に感じた“変革の予感”

竹内氏:私はアメリカの大学に通っていたんですが、ちょうどその頃、アメリカでも大きな変化が起きていました。1990年までは、大学内でもタイプライターとワープロとパソコンが共存していました。1990年に入ってからAPPLEがSystem7、MicrosoftがWindows3.0をリリースし、一気にパソコンが一般に普及し始めました。そんな中で、FTPやGopherといった、今では使われなくなったプロトコルが登場していて。ワールドワイドウェブ -今の“www”=インターネットが出てきたのも、ちょうどその頃でした。私は両親から当時高価だったパソコンを買ってもらい、Compuserveというパソコン通信をはじめ、そこからインターネットにアクセスするようになりました。アメリカでそれを初めて目にして、強い衝撃を受けました。「これは世の中が変わる」とデジタル時代の幕開けを感じたんです。日本ではまだ一部のマニアしか使っていなかったパソコン通信の時代。コンピュータの黒い画面で専用のコマンドを覚えて必要な情報にアクセスしていました。当時パソコン通信サービスを提供していた会社は国内に2社しかなく、そのうちニフティサーブというサービスを提供していたニフティに入社しました。

--最初から経営企画部に配属されたのですか?

竹内氏:当時の僕にとって「経営」というのは強い関心のあるテーマだったので、経営企画部への配属を強く希望しました。実際に、社長や役員たちがどんな情報をもとに意思決定をしているのかを間近で知ることができて、非常に貴重な経験でした。当時の日本はバブルが崩壊し、経済が大きく低迷していました。一方で、アメリカからコンピュータやインターネットのテクノロジーの潮流が強く入ってきていた時代でもあったんです。私はその変化やムーブメントをアメリカでリアルに体験してきたので、いち早く情報やトレンドを取り込むことができました。そういった背景もあって、経営企画部門に配属が決まったのかなと思います。

“経営に関わる”という軸が選んだキャリアの連続性

竹内氏:会社選びの段階で、最初から起業を意識していたわけではありません。ただ、「経営にかかわる仕事をしたい」という、漠然とした思いはずっと持ち続けていました。だからこそ、大学では経営学部を選び、キャリアのスタートも経営企画部。そこから経営コンサルタントへ進み、さらにSAPという経営管理システムを提供する会社に入りました。実務の立場でも、ITという側面からも、ずっと企業経営に関与し続けてきたわけですが、出自以外で大きな影響があったのは、やはり多感な学生時代をアメリカで過ごしたことですね。日本に戻って社会人になったときに、さまざまなギャップというか違和感を感じることが多くありました。日本にいたときは「あたりまえ」と思っていた常識が、「なぜこうなんだろう?変だな。」と感じるようになっていたのです。特に違和感を覚えた部分は、言い換えると日本企業の弱点といってもいいでしょう。例えば、年功序列制、前例主義、課題先送りの決断しない経営、不明瞭な責任所在、生産性を無視した労働集約業務など、バブル崩壊後は、その弱みが一気に表面化したようにも思えます。そうした欧米との「違いに気付き、それを指摘し、変革するために行動する」という、図太さというか、ある種の図々しさも、学生時代に異文化に触れていた経験が、その後のビジネスパーソンとしてのキャリアにおいて、大いに役立っているように感じています。

--その後、日本オラクル、シンプレクス・コンサルティングと、外資系色のあるキャリアに進まれましたね。シンプレクスは当時、個性的な人が集まる新しい会社という印象がありますね。

竹内氏:そうですね。シンプレクスは、もともと外資系コンサルティング、金融出身の方が立ち上げた会社ですからね。日本企業ですが、文化としては外資っぽさを感じさせる一方で、非常にベンチャー色の強い会社でした。集まる社員も野心的で独立心が旺盛な方が多く、刺激を受けることも多くありました。私は金子英樹社長の下で、FX事業を担当させていただいたのですが、経営者として、起業家として、その姿勢、行動力、決断力は大変勉強になりました。社会人になって、様々な経営者と仕事をさせていただきましたが、経営者として格好良さに惚れてしまった方は、後にも先にもシンプレクスの金子英樹さんだけですね。彼と出会わなければ、自分で事業をやろうとは思わなかったかもしれません。

偶然の出会いから始まった、名古屋での起業

--起業に至るまでには、どのような経緯があったのでしょうか?

竹内氏:きっかけは、私が東海総合研究所(現:三菱UFJリサーチ&コンサルティング)に在籍していた頃、名古屋で異業種交流会を主催したことでした。その場で、当時監査法人トーマツに勤めていた公認会計士の髙村徳康氏と出会ったんです。そのとき私は29歳で、彼は33歳。お互い血気盛んな若者でした。「東海地域をもっと元気にしたい」という話で意気投合し、私たちの所属していた会社に加え、地元のテレビ局や新聞社と一緒に社内ベンチャーを立ち上げることになりました。東海地区全体が保守的な土地柄がゆえにベンチャー企業も少なく、新しい動きがなかなか起きない。そんな状況に対して「ベンチャーを支援する組織を作って、地域を活性化させていこう」と語り合っていたことが原点です。そこから、今の会社の前身となる社内ベンチャーを立ち上げました。

“応援団”から“経営者”へ、モデル転換の必然

竹内氏:もともとは「挑戦する人たちの応援団になりたい」という思いから、ベンチャー企業と大企業のビジネスマッチングのプラットフォームとして事業をスタートしました。 ベンチャー企業はヒトもカネもコネもない、一方で大手企業は新しいチャレンジに踏み出せていない現状に対して、私たちがお見合いの場をつくれたらという想いが出発点でした。ただ、事業を進めていく中で痛感したのは、「外部から支援するだけでは本質的な成長にはつながらない」ということです。 マッチングを推進したり、出資をしたり、コンサルタントという立場で経営に関与したりしても、根本から変革を起こすには限界があるとわかってきました。結局、この事業自体は数年で終わってしまうのですが、それから十余年の時を経て、再び盟友高村氏と事業をスタートすることになったのが現在のセレンディップホールディングスです。当時ベンチャー支援で得た学びや教訓は現在の事業に大いに役立ちました。お互い年齢と経験を重ね、導き出した答えは「自分たちがリスクを取って、当事者として経営をする」と言うことです。コンサルティングや一部出資ではなく、M&Aで100%株式を取得し、オーナーとして経営するという今のモデルになったのです。 もし外部支援のスタイルでうまくいっていたら、このビジネスモデルには行き着いていなかったと思います。

--応援団的な立場から、リスクを取りつつ事業を所有するスタイルへと転換されたわけですね。上場というのはその中でどのように位置づけられていたのでしょうか?

竹内氏:上場を目指した背景には、いくつかの理由があります。創業から3年目くらいまでは、出資先の企業価値を上げ、短期で売却して利益を上げることをしていて、大きな利益を生み出していました。でも、やりがいを強く感じることはありませんでした。昨日まで「一緒に頑張ろうぜ」「一緒に戦おうぜ」と声をかけていた社員に、ある日突然「売却先が決まったので、短い間だったけどいままでありがとう」なんて──簡単に「はいそうですか」と受け入れることはできません。 従業員や取引先、そして私たち自身にとっても割り切れないものがありました。それならば、PEファンドのような短期投資ではなく、事業会社の経営者として自分たちが責任を持ってその会社を経営し、オーナーシップを発揮し続けた方がいい。そう思うようになったんです。やはり従業員から見られているのは言葉以上に「立場」や「覚悟」です。 どれだけ「責任を持ってやります」と言っても、本気度は伝わらない。だからこそ、経営者としてリスクを共にし、社員と同じ釜の飯を食いながら事業を推進する。その覚悟を見せることで、ようやく仲間として信頼されるようになっていったのだと思います。ただそうするためには、私たちには資金力も信用力も十分ではありませんでした。そのためには資金を調達し、社会的な信用を獲得するための手段として、上場を目指す必要があったのです。

経営に本気で向き合う覚悟とやりがい

竹内氏:この仕事をして一番面白いのは、買収をしてセレンディップグループに入った会社の従業員が前向きに仕事をし、以前より成長している実感を持てたときですね。それが何より手応えとやりがいを感じる瞬間です。残念ながら、多くの人は変化を好みませんが、セレンディップは前例踏襲主義を廃止し、経営やモノづくりを変革していきます。DXやIoT、新規取引先の開拓、製品開発など、一つ一つが変革のきっかけになりますが、最初はどれも抵抗を受けるんです。でも、少しづつ成果が出てきて、それが個々人が実感できるようになると、一気に現場の雰囲気も変わっていきます。現場から自発的に「こう変えていきたい」という提案が出てくるようになったときには、本当に胸が熱くなります。あの瞬間こそ、私たちがやってきた意味があると感じますね。

--特にこの東海エリアでは、外部の変化を受け入れにくい風土があるとも言われます。そうした環境の中で、変革をどう実現してこられたのでしょうか?

竹内氏:やはりロジックだけでは動かないんです。いくら正しいことを言っても、それが伝わるとは限らない。結局は「同じ目線に立つこと」がすべてでした。100%子会社としてオーナーになり、自らリスクを取り、社員と同じ立場で、同じ釜の飯を食べる。そうやって、同じ土俵で汗をかくことで、ようやくスタートラインに立てるんです。上から目線で「ああしろ、こうしろ」と声を張り上げても、誰も耳を傾けてくれません。正直、最初は遠回りに思えることも多かったです。でも、振り返るとそれこそが転機になっていました。 上場を目指した背景も、まさにその延長線上にあります。私たちが経営する会社を、働く人が「誇れる場」にしたいと強く思っていました。従業員にとって、オーナー企業はどこまでいっても「他人の会社」ですが、上場企業は持ち株会やストックオプションによって名実ともに「私たちの会社」になれるのです。上場したことによって、採用や取引の開拓にもプラスに働きましたが、何よりも、そこで働いてくれている社員にとって、自分たちの会社を誇りに思えるようになった──。それが一番の成果だと思っています。

製造業の変革は現場から始まる

竹内氏:私たちは、中堅・中小の製造業における「経営のロールモデル」になれたらと考えています。多くの会社を傘下に収めたいということではなく、「こんな経営の仕方がある」「こんなモノづくりのアプローチがある」といった、具体的な手法や事例を自ら実践し、他社にも隠すことなく情報公開していく。それが私たちの価値だと思っています。経営の話だけでなく、現場の改善も含めて「本当に会社って変われるんだ」と体感できる実例を見せることで、「自分たちにもできるかもしれない」と思ってもらえる。その積み重ねが、結果として若い経営者の挑戦機会を増やすことにもつながると考えています。製造業の世界は、30代どころか、40代でも50代でも「まだまだ」と言われがちです。でも実際は、遅すぎるくらいなんですよ。だからこそ、もっと早いタイミングで経営を担える環境を整えることが重要だと思っています。そうした環境が整えば、現場のデジタル化や自動化も進んでいくし、業界全体が刷新されていくはずです。経営陣が高齢化していると、どうしても企業全体の体質が古くなってしまいます。年齢だけが問題ではありませんが、組織に新陳代謝をもたらすには、やはり変革の流れを生む必要があります。

--御社が自社で実践しているDXや現場改革の取り組みが、そのまま支援先の成功事例にもなっているのですね。

竹内氏:そうですね。例えばIT化や自動化も、外部のシステムやロボットを導入するだけなら、正直どの会社でもできますし、外部のコンサルティング会社を使えばさらに容易です。でも、そこで終わってしまう。現場に定着しないことが多いんです。私たちは「真のDX」を確立していきたいと考えています。経営と現場が結び付き、戦略と連携しながら進めていく必要があります。だからこそ、自分たちで悪戦苦闘しながら試行錯誤し、事例を積み上げていく。そしてそれを他社に展開していく。このサイクルこそが、最も説得力があり、実際に成果に結びつく支援の形だと思っています。

--製造業では、変化に対して慎重な企業も多い印象です。特にデジタル化へのハードルを高く感じている企業もあるかと。

竹内氏:おっしゃるとおり、最も大きな課題は「リテラシーの低さ」だと思っています。ただ、実戦に使えるリテラシーは学問ではなく、事例によってしか上がっていかないんです。だからこそ、「自社に当てはめるとこうなる」という体感を提供することが必要です。そのために、わかりやすく、再現性の高い事例を数多くつくる必要があります。また、導入の方法論も非常に重要です。私たちの中では、ある程度成功のための「型」ができてきました。「とりあえず何でもやってみよう」ではなく、「この順番で進めないとうまくいかない」という明確なステップがあります。この方法論に磨きをかけながら、できるだけ多くの企業に届けていく。日本の製造業を変革に導ける可能性を広げていきたいと思っています。

キャリアの集大成は、企業を「大人」に育てること

竹内氏:もともと僕は「軍師」になりたかったんです。諸葛孔明のように、誰かを支え、仲間を勝利に導く存在になりたいと思っていて。経営企画やコンサルタント、経営システム会社で働いていたのも、そういう志向があったからです。でも、ある時に「自分で責任を持ってやらなければ」と思った。それが起業のきっかけになりました。誰もやったことのないことに挑戦し続ける。それが今の自分のスタンスです。たとえば、初めてベーカリーチェーンを買収したとき。「食品業界は難しいので、あなたには無理だ」「知識や能書きだけでは経営はできない」と否定的な声ばかりでした。取引先も従業員も、家族や友人も不安の目で見ていました。でも「何が何でも成功させる」という思いと、未知へのワクワクが半分ずつあった。チャレンジしない人生なんて、と思ったんです。40歳の節目に独立を決意したのも、タイミングとして今しかないと思ったから。年齢的には「おじさんベンチャー」かもしれないけれど(笑)、心技体、経験も資金も人脈も、条件が整ったのがその年齢だったという話です。

--今後のキャリアについて、目指している姿は?

竹内氏:40代は「上場」が目標でした。仲間や社員たちが誇りを持てる会社にしたい。その手段として上場という選択肢がありました。次のチャレンジは、会社を「巡航高度」に乗せること。私の感覚で言えば、売上で500億〜1000億円規模がそのラインだと思っています。それが50代の集大成として目指す姿です。私のキャリアは、10年ごとにテーマがありました。20代は多くの知識と経験をインプットすること、30代は外資ITで責任のあるポジションにつくこと、40代は経営者になり上場すること。そして50代は会社を成熟させるフェーズ。組織体制や事業ポートフォリオも整え、グロース市場からプライム市場への移行も視野に入れています。手段としては、海外進出、DX推進、資金調達の拡大などが挙げられます。そしてもうひとつのテーマは「後継者育成」。ホールディングス全体の経営を任せられる人材を育て、次世代へのバトンタッチを見据えた準備も進めています。

CxOキャリアを目指す人へのメッセージ

竹内氏:新しいことにチャレンジしたり、学んだりする姿勢をやめた瞬間、ビジネスパーソンとして成長が止まる──僕はそう思っています。逆に言えば、チャレンジし、学び続けられる限り、アウトプットの量も質もどんどん広がっていく。経営者になること、上場すること、そしてさまざまな業種でのM&A。それぞれが初めての挑戦ばかりでした。もちろん失敗もありましたが、それ以上に得たものが多くありました。一つだけ確実に言えるのは、「素晴らしい環境もチャンスも、待っていても誰も与えてはくれない。」ということ。インプットやアウトプットの場も、自分でつくっていくしかありません。そういう意味では、私が貪欲にチャレンジし続けられるのは、自分自身に課した”ルール”があるおかげで、ブレずにいられるのかもしれません。

私のセブンルール
1.一緒に新しいことを始める仲間を持つ
2.自分の可能性を信じ、大きな地図を描く
3.アートとサイエンスのバランスを保つ(直感とデータを両立させる)
4.海外で起きているトレンドを把握できる手段を持つ
5.天邪鬼になる(皆と同じことをしない)
6.失敗から回復するスピードを上げる
7.あきらめない

私にとってはどれも大事なルールですが、特に「仲間」の存在は大きいですね。自分と違う高い能力をもつ仲間と出会うためにも、「同質からの脱却=社外に出る」ことは極めて重要です。これからCxOキャリアを目指す皆さんは、遊ぶにしても、学ぶにしても、自分と異なる文化や能力の人と多くの時間を過ごすことをお勧めします。その中で、質の高いインプットとアウトプットを繰り返して、自分でそのフィールドを育てていくことが大事です。結果的に、それが自分の学びにもなりえるし、ビジネスチャンスにもつながっていくことになるでしょう。