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【CxOキャリア】原田大作氏のキャリアストーリー

CxO MAGAZINE編集部
2025/05/12 12:00:00

CxOキャリアストーリー019

ディズニーから起業、メルカリへ売却&参画、そしてシンガポールでの海外挑戦で成し遂げたいこととは?

CxO キャリアサマリー

原田 大作 氏
VELVETT / ベルベットジャパン株式会社 代表取締役

  • 2005年 ㈱サイバード 入社
  • 2008年 ウォルト・ディズニー・ジャパン㈱ 入社
  • 2011年 ザワット㈱ 創業 代表取締役就任
  • 2017年 ザワット㈱を㈱メルカリに売却、参画
  • 2018年 メルカリ新規事業子会社の㈱ソウゾウ代表取締役社長 就任
  • 2019年 ㈱メルカリ Head of Product-Newbiz
  • 2021年 メルカリグループ 経営戦略室ディレクター
  • 2022年 シンガポールにてVELVETT PTE. LTD. 創業
  • 2023年 ベルベットジャパン株式会社 設立

CxOのキャリアを選んだきっかけや背景は?

原田氏:学生の頃はバンド活動に熱中していて、本気で音楽で食べていこうと思ってました。大学も休学して、一人暮らしをしながら、いわゆる“フリーター生活”をしていたんです。ただ、このままでいいのかという不安もあって、自分なりに「1年間だけやってみて判断しよう」という“POC”的な期間を設けました。昼は長期インターンのような形でフルタイムで働き、夜はスタジオで音楽活動。そんな生活を続ける中で、自分たちのバンドをひとつの“事業体”として回す面白さに気づいたんです。音楽を作って、インターネットで集客して、売上を管理して——そういった運営全体の方が、実は自分に向いてるんじゃないかと。演奏や作曲も好きでしたが、正直、突出した才能はないと感じていました。バンドは最終的に解散しましたが、振り返ると「自分は演奏するより、全体をプロデュースする側が向いている」と思ったんです。そして、プロデュースの究極って、たぶん“会社をつくること”なんじゃないかと。それで自然と「会社をやってみよう」と思うようになりました。当時はちょうどモバイルが急速に進化していた時代で、「モバイル × インターネット × プロデュース」という組み合わせが、自分にとってしっくりきたんです。harada_01

「これは来る」と確信して、モバイル業界へ

-そのバンドと仕事の“二重生活”が終わったあと、就職されたんですか?

原田氏:そうですね。バンド活動と“ほぼフルタイム”での仕事がひと段落した後、大学に戻りました。そこから1年ほどは、引き続きフルタイムに近い形で大学生ながら会社で働いていたんです。当時のインターネット業界がすごく面白くて、バンドと同じように、自分たちで企画して、作って、広げていくというプロセスがあるのが魅力でした。だから、やるならモバイル領域に絞ろうと決めていたんです。当時はまだ携帯電話でインターネットを使っている人なんてほとんどいなかったけど「これは必ず来る」と確信していました。とはいえ、最初から絞りすぎてもよくないと思って、いったんは幅広く就職活動をしました。いくつか大手からも内定もいただいたのですが、最終的に選んだのは株式会社サイバードでした。ちょうど六本木ヒルズが建ったタイミングで、楽天、ヤフー、Google、ライブドア、そしてサイバードといったIT系企業が揃って入居していた時代です。中でもモバイル領域で頭ひとつ抜けて面白そうだったのがサイバードでした。実際に入ってみると、バックグラウンドが本当に多様な人たちが集まっていて、リクルート出身の人もいれば、電通、ソニーミュージック、銀行など、業界の垣根を越えたプロフェッショナルが、モバイルインターネットという共通のテーマのもとに集まっていました。「ここはサーフィンの島」「ここは証券の島」「ここはポケモン、こっちは占い診断の島」といった具合に、コンテンツごとにチームが分かれていて、それがまたすごく刺激的で。トッププレイヤーたちが集まって、本当に寝ずに働いていました。まさに“ヒルズ族”の時代です。

-今振り返って、当時の経験や人との繋がりって、起業に活きていますか?

原田氏:間違いなく活きています。当時の会社は、まだ新しい分野を開拓しているフェーズで、組織としても挑戦的な雰囲気がありましたが、何よりも“人”が魅力的だったんです。みんな、自分が信じる未来に全力でベットしていた。自分にはまだ何もわからないけれど、たぶんこっちの方向なんじゃないか——そういう直感で飛び込んでみたら、本気で未来に向き合っている大人たちがたくさんいた。「この場所、なんか良さそうだな」と自然に思えたんです。実際には、大学時代からすでに3年近くインターネット業界で働いていたので、新卒として入社しつつも、ある程度の実務経験がありました。だから入社直後から「新規事業をやらせてください」と手を挙げたり、「将来的に会社を作りたい」という話もしていました。会社側もそれを汲んで、いろいろ任せてもらえるようになった感じです。

世界最強のコンテンツを学ぶため、ディズニー社へ

原田氏:サイバードではいくつか新規事業を立ち上げ、ある程度成果も出せたので、「もうやり切ったかな」と思いサイバードを卒業しました。次に入ったのがウォルト・ディズニー・カンパニーです。当時、ベンチャーで良い面も悪い面もたくさん見てきた中で「やっぱりコンテンツを持っているところが一番強い」と感じたんです。だったら、“世界最強のコンテンツ”を持つディズニーで挑戦してみようと。ちょうどモバイルインターネットが定額制になってきた頃で、自分が信じてきた流れが現実になり始めた時期でもありました。今で言えば、ブロックチェーンやWeb3のようなものでしょうか。早い段階で動いていると、5年後には世界が追いついてくる。そしてそのときには、先に動いていた人が圧倒的なポジションを取れるんですよね。サイバードで培った知見はどこでも求められていて、「どこにでも行ける」という手応えもありました。だからこそ、次はコンテンツにフォーカスしようと決めて、ディズニーに飛び込みました。 
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-ディズニーってハードル高そうですが、サイバードでの経験が評価されたんですね。

原田氏:そうですね。当時の日本法人には、20代の社員がほとんどいなかったんです。僕のあとにようやく数人入ったくらい。しかも英語が話せないと難しい環境で、帰国子女ばかりの職場でした。僕は全く英語が話せなかったので、面接で「君、ここがどこの会社かわかってるの?」って怒られたくらいです(笑)。でも、「僕、モバイルだったらどんなサービスも作れますし、英語なんて関係ないっす!」と勢いで押し切ったんです。結果的にそのとき面接で怒ってくれた方が、のちに人生の恩師・メンターになってくれました。ディズニーでは4年間働きました。ベンチャーのように若手にすべてを任せるカルチャーではなかったですが、それでもチャンスは与えられました。僕は新規事業に関わる「インキュベーションチーム」に配属され、最新技術を活用した取り組みや集客施策などに取り組みました。運用側も経験したかったので、結果を出しながら、現場での実績をしっかり積んでいきました。当時「次に来る波は、ソーシャルメディアとスマートフォン」だと感じていたんです。社内ではかなり反発されましたが、なんとか立ち上げにこぎつけました。ちょうどミクシィさんがソーシャルゲームに注力していた時期で、モバゲーさんと組んで出したゲームがヒットし、「ソーシャルゲーミングスタジオ」のようなチームも立ち上がりました。その頃、ディズニーと一緒にソーシャルゲーム界隈で活躍していたのが、メルカリを創ってきた人たち。たとえば山田進太郎さんや富島さん、石塚亮さん、松本龍祐さん、青柳直樹さんなど、当時のキーパーソンたちです。彼らは当時からすでに頭角を現していました。一方で、同世代の仲間たちがどんどん起業していくのを見て、「自分は大企業の一室で偉そうにプロデューサーをやってるけど、これでいいのかな?」というモヤモヤもありました。だからこそ、ディズニーでは何よりも大きな結果を出すことを意識して働いていました。そのうえで、「次の波は本物だ」と確信し、20代ギリギリの29歳、2011年にザワット株式会社を創業しました。

震災が生んだ原点。個人の“願い”をつなぐWishScope

原田氏:この事業は、3人でスタートしました。最初に声をかけたのは、ヤマタツくんというエンジニアです。彼と「一緒にやろうか」と話していたんですが、どう考えてもエンジニアはもう1人必要だと感じていたんですね。当時、ヤマタツくんはワークスアプリケーションズに入社して1年目。にもかかわらず、年収が600万円くらいあって、「ちょっともらいすぎだろ、お前(笑)」と。「だったらもう辞めちまえよ」なんて冗談交じりに話していました。でもやっぱり現実は甘くなくて、腰を据えて一緒にやれる、安心できる仲間がもう一人欲しかった。それで過去を振り返ったときに、「やっぱりサイバード時代に一緒に仕事をして信頼していたエンジニアのノブさんだな」と思って、声をかけました。こうして3人で、事業を立ち上げることになったんです。

-なぜその事業を選んだのか、あらためて教えてください。

原田氏:最初のサービスは「WishScope」という名前でした。今で言うと、ジモティーのような“町の掲示板”に近いサービスですね。Facebookの登録情報を活用して、裏側で独自のマッチング技術を動かしていて、「こんなことお願いしたい」と投稿すると、それを解決できる人を自動で見つけてくれる仕組みです。スマホで使えるサービスとして展開しました。この事業を選んだ大きな理由のひとつは、東日本大震災の経験です。たとえば、「この地域には物資があるけど、あちらの地域にはない」「人手が足りないけど、助けられる人がどこにいるかわからない」といった課題が山ほどありました。でも、それを解決するためのプラットフォームが存在しなかった。そのときに「これは絶対に必要な仕組みだ」と感じたのが原点です。そしてもう一つ、ディズニー時代から感じていた「個人間取引を、もっとスマホで簡単にしたい」という想いとも重なって、「WishScope」が生まれました。
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“3度のピボット”からたどり着いたメルカリM&A

原田氏:WishScopeの立ち上げ期は、いわゆる「ザ・スタートアップ」でした。イベントに登壇したり、自分自身も前に出て活動していたので、スタートアップ界隈の人たちには使ってもらえたんですが、マス層には広がりきらなかったんです。当時はCtoCに決済を組み込む仕組みがなく、マネタイズにも苦戦しました。ユーザーの8割は「物を売ります・買います」目的で使っていたので、そこにフォーカスして「スマオク」というフリマ型サービスにピボットしました。ファッションやブランド品に特化して、女性をターゲットにマーケティングにも力を入れていきました。ただ、メルカリやフリルといった競合が強く、ユーザー獲得単価も合わなくなってきた。改めてユーザーにインタビューしていく中で、日本に住む海外の方々が活発に売買していることに気づいたんです。「これはグローバルにいける」と感じて、CtoCの軸はそのままに、国内向けから「日本人が海外に商品を売る」形にスライドしました。すると、世界には競合も少なく、しかもお客さんは“爆買い”してくれる。広告も回せば確実に回収できる状態になり、プロダクトマーケットフィットが成立しました。さらに外部のECサイトにJavaScriptを埋め込んで、海外アクセスに対応する仕組みも開発し、ようやく事業が安定してスケーラブルになってきました。ただ、次の資金調達を考えたときに、このまま続けても数百億円規模が上限だと感じていました。それに5年はかかるし、自社株もかなり希釈されていた。広告アカウントのBANや、僕自身のSNSアカウントが凍結されるなど、運用まわりにもリスクが出てきていたんです。そんな中、ソリューション型の営業活動を通じてM&Aの打診をもらい、正直驚きました。当初は資金調達を前提に話していたんですが、あるとき友人でもある当時メルカリの松本さんに「こんな話があってさ」と相談したら、「うちに来る可能性ってあるんですか?」と言われて。最初は想定していませんでしたが、「それもアリかもしれない」と思えてきて、一気に話が進みました。最終的には、100%キャッシュでのM&Aでまとまりました。カルチャーの親和性や、社員の将来も含めて、メルカリが一番良い選択だと判断しました。当時はメルカリが上場準備中のタイミングで、「Nマイナス2」ぐらいだったと思います。まだスタートアップでのM&A事例が多くなかった時代ですが、今振り返ってもチャレンジングでありつつ、納得感のある意思決定でした。
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メルカリでの6年間と、スタートアップドリームの実現

原田氏:メルカリには6年弱在籍しました。ただ、入社時にひとつだけ不安だったのが、既存のザワットメンバーの今後のストックオプション(SO)についてでした。M&Aだと創業メンバー以外にはインセンティブが出にくいので、「既存メンバーも評価してSOを発行してほしい」と話しました。メルカリ側のスタンスは、「明確には約束できないけれど、SOを発行するタイミングはまだある。メルカリ社員と同じルールで、成果を出せば、その時に評価する」というもので、性善説に基づくものでした。「ザワットのメンバーは優秀で、リスペクトしている」と言ってもらえたのも印象的でした。結果として、チームはしっかり成果を出してくれましたし、多くのメンバーがSOを得て、いわゆる“スタートアップドリーム”を実現できたと思います。僕自身も、売却まではこれまでの株主に対する責任がありましたが、それ以降はメルカリでの実力で評価されるフェーズに移りました。その後、SOの発行や株式上場も実現でき、僕にとっては二段階のExitがあった感覚です。ただし、SOの話も「評価できるようならする」という姿勢で、「絶対こうなる」とは一切言われませんでした。無理に引き留めることもなく、モチベーションを保てなければ辞めてもいい。辞めたらその後のリターンがなくなるだけで、それ以上でも以下でもない。非常にフェアでした。メルカリは当時から期待値のコントロールが非常に上手でした。「SOがいくらになる」とか「頑張ればこうなる」といった煽りは一切なく、「そんなもの約束できない」とはっきり伝えてくれました。変に煽らず、過度な期待を持たせず、それでいてちゃんと結果を出せば報いる。メルカリでのM&Aは、今振り返ってもベストな形のひとつだったと思います。 

-改めて振り返ってみて、メルカリで過ごした6年間で得られたものは何ですか?

原田氏:一言で言うと、「最高でした」ね。もともと僕は、「とにかく会社を大きくしたい」というタイプではなくて、CtoCで人々がモノを売り買いすることによって、世の中が滑らかになる──そんな世界を実現したくて起業したんです。ビジョンありきの起業でした。小さな海賊船で戦ってきたけれど、より大きな豪華客船に乗って“約束の地”にたどり着けた。そこに自分の役割がちゃんとあって、思い描いていた世界が実現できたことは、個人的にすごく大きな意味がありました。自分がやらなくても、みんなで一緒にやれたことがよかったし、何より、メルカリのメンバーたちが「ウィッシュスコープ」や僕がリスクを取ってきた初期の挑戦にインスパイアされたと言ってくれたことが、本当に嬉しかったです。外から見ているだけではわからない部分もありましたが、実際に入ってみると、メルカリ側も僕たちのことを徹底的に研究してくれていた。ザワット自体はビジネス規模としてはそこまで大きくなかったかもしれません。でも、早い段階で創るべき未来にチャレンジし、実証してきたことがちゃんと見られていたし、評価されていたと感じます。今のメルカリを見ても、伸びているのはBtoCと越境ECの領域で、まさにザワットがメルカリとは違う土俵でチャレンジしていた場所。越境ECは僕と元ザワットのPMとメルカリ有志のエンジニアで立ち上げましたし、BtoCの実証実験も当時から始まっていて、それが後に正式に組織化されて今の成長につながっている。それを影で見届けられたのは、本当に良かったと思います。もちろん、誰がやってもいずれはそうなっていたのかもしれませんけどね。
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千葉道場の立ち上げと学び

-その後、「千葉道場」を立ち上げたんですよね?

原田氏:千葉道場はザワット経営時代にコミュニティがはじまって、メルカリ在籍中にファンド化をお手伝いしました。もともとザワット時代からにエンジェル出資してくださっていた千葉功太郎さんがいて。当時、僕と石井貴基さん(現GP、当時Edu Tech系のCEO)で、「このままではお互い経営、厳しいよね」と暗い話をしていたんです。起業家同士で、本音で話せる場が欲しいと。共通の投資家だった千葉さんにも入ってもらって、最初は少人数の集まりの予定でした。でも、千葉さんから、「似たような課題感を持っている起業家は他にもたくさんいたので、せっかくならもっと広げてみよう」と。単なる懇親会ではなく有意義な場にしようということで、オフサイト形式の合宿になったんです。たまたま言い出しっぺの僕が1回目の企画を担当して鎌倉のお寺を貸し切って開催しました。名称も幕末に坂本龍馬が剣術を磨いた道場にあやかって「千葉道場」としてスタートしました。

-その後、「千葉道場」を立ち上げたんですよね?最初は、ご自身の会社の相談のような、コミュニティ的なスタートだったんですね。 

原田氏:そうです。1度目の幹事を僕が担当しただけで、以降は起業家が幹事を持ち回りで担当して開催する形になりました。起業家同士だからこそ分かる悩みってあるじゃないですか。投資家がいない場にも意味があった。年に2回ほどのペースで開催していくうちに、千葉さんも出資をどんどん増やしていって、参加企業も広がっていきました。「ドローン部」みたいな兄弟コミュニティも生まれて、気づけば参加社数は100社以上、ドローン合わせると180社近くに。5年で10回ほど開催する中で「これはもうファンドにした方がいいのでは?」という話になりました。千葉さんが個人で出資し続けるのもリスクがありますし、実際、彼は個人でまさかのジェット機の操縦も始めていたので、万が一のことがあったら迷惑をかけてしまう、という思いもあったようです。さらに、道場での議論の中心は結局「ファイナンス」の話になることが多かったんですね。戦略を支えるファイナンス機能の必要性も感じていました。そうした背景もあって、千葉さんが「VC化しよう」と決断し、ちょうどExitして現役起業家よりは時間があり、次の挑戦を模索していた僕と石井さんが改めて千葉道場ファンドとしての設計やLPからの資金調達などをサポートしました。
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-今振り返ってみて、その経験から得たものはありますか? 

原田氏:とても学びの多い経験でしたね。僕はずっと出資を“受ける側”だったので、M&AやIPOを通じて、いわば“スタートアップのプレーヤー”としては一通りやってきた。でも今回は「出資する側」の世界が少し見えたんです。そもそもVCの仕組み自体、僕はちゃんと理解していなかった。ファンドの裏には決められた数のLP(出資者)がいて、説明責任もあるし、償還期限もある。要するに、VCもスタートアップと同じく、資金を集めて、それを運用してリターンを出すという事業モデルなんですよね。ファンドとして資金を集めるのも大変ですし、投資判断もすごく慎重。1日中ミーティングしても、月に1件投資が決まるかどうかというペース。僕は投資判断には関わっていませんが、資金調達や投資先へのアドバイザリー、コミュニティ運営など周辺業務を「フェロー」という役職でサポートしました。その中で特に印象に残っているのが、「断る側の難しさ」です。出資を断られるのって辛いじゃないですか。でも、断る側もまた、すごく気を遣う。言い方ひとつで相手を傷つけてしまう。結局、投資って“99%断る仕事”なんですよ。その重みや、意思決定の裏でどれほど深い議論が行われているのか──それを間近で見られたのは、本当に貴重な経験でした。

-改めて、起業を経て、今は出資する立場にも回られています。そうしたご経験を踏まえて、「外部から出資を受けるうえで本当に重要なことは何か」と聞かれたら、どう答えますか?

原田氏:そうですね。一つ強く感じているのは、たとえばVC一社の背後にも、実は49社ほどの出資者=LPがいるということ。つまり、自分が向き合っているのはそのVCだけではなく、50以上のステークホルダーの法人・個人がいるという認識を持つべきなんです。彼らはリスクマネーを投じているとはいえ、当然ながら大きな期待を持って投資しています。出資を受けるということは、そのお金を「運用」する責任も伴うわけです。だからこそ、急成長が見込めるようなビジネスでなければ難しい。極端に言えば、成長性が乏しいならビットコインにでも投資したほうがいいという話になってしまう。そういう意味で、これは一種の覚悟の話でもあります。お金は人様の大切な資産である一方、リターンを求めて投じられているもの。その両面をきちんと理解したうえで、どうせやるならスケールの大きなチャレンジをしたほうが、投資する側も、される側も、納得感を持てるんじゃないかと思いますね。

アジアから世界へ──新たな挑戦とシンガポールでの起業

-今取り組んでいる新たな挑戦について教えてください。

原田氏:日本でいろんなことに取り組んできましたが、今は海外に出て挑戦しています。というのも、ザワット時代にアジアからきっかけをもらって何とかなった経験があって、恩返しの意味も込めて、今度はアジア・世界に向けて勝負したいと。日本の強みを海外に持っていくとしたら、IPビジネス、ものづくり、そしてリユースが可能性あるなと考えました。いろいろ検討した結果、再現性や未来を見据えたときに「今は注目されていないけど、3〜5年後にはみんなが注目する」技術に賭けるべきだと。僕にとってそれが、かつてのモバイルインターネットやソーシャルゲームに続く「Web3」だったんです。NFTがバブル的に盛り上がったことで一時的に人が離れたけれど、本質的なブロックチェーンの技術に惹かれて残っている人たちもいる。そこにこそ可能性があると思っていて、「リユース×Web3」をテーマに新たに起業しました。どうせやるなら世界を狙おうと、シンガポールに拠点を構え、日本&アジアを基軸に世界市場へ攻めていくモデルで動いています。正直、めちゃくちゃ大変ですけどね(笑)。 

-シンガポールは生活コストも高く、スタートアップにとっては厳しい環境でもあると思いますが、それでも今そこに身を置いている理由は?

原田氏:シンガポールのスタートアップ環境は、本当にいいですよ。まず投資家の数が桁違いに多い。そして起業しやすい制度や仕組みが整っている。面白いのは、現地のシンガポール人ってあまり起業しないんですよ。相続税がないから、親の世代の資産がそのまま残っていて、裕福な人が多い。統計的にも5人に1人が億万長者と言われるくらいです。国としても優秀で、真面目に働いていれば老後は何億円という単位で蓄えがあるような仕組みになっている。だからこそ、海外から野心ある人たちが集まってきていて、ピュアに「やってること」で評価される世界がある。そこが日本とは違っていいなと思っています。日本はどうしても村社会的なバイアスがあって、噂や関係性、過去のトラックレコードが影響しがちですからね。シンガポールはその点で極めてフラット。ただし、評価はシビアですけど。
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Web3で目指す「みんなで価値をつくる世界」

原田氏:僕自身の一番のモチベーションは、ユーザーがハッピーになる世界をつくることなんです。それが可能だと思って選んだのがWeb3の技術でした。CtoCのフリマアプリを10年かけてやってきて、仕組み自体は仕上がってきたけれど、リターンを得たのは主に企業や役員・社員など法人側。一方で、実際にそのプラットフォームを動かしていたセラーやバイヤーのお客様ち、配送を支えていたパートナー企業の皆様の生活が大きく変わったかというと、そうでもない。それに少し違和感があって。だから次は、参加するユーザー一人ひとりにもインセンティブが還元されていくような、みんなで価値をつくり上げていくエコシステムをつくりたいと思ってるんです。もちろん言うは易しで、Web3の概念はまだまだ誤解されやすい。「何か怪しいんじゃないか」と思われることもあるし、あまりこの話を熱く語りすぎると、逆に胡散臭いと思われてしまう。でも、自分としては技術の本質に賭けていて、ちゃんと形にして証明していきたいんです。理解されるにはまだ時間がかかる。規制もある。でも、あと5年くらいかけて、日本の強みである「リユース」をベースにアジアで仕組みを広げて、世界中のユーザーがつながっていく──そんな未来が見えたら最高ですね。きっとその時に、過去にアジアで助けてもらったことへの恩返しもできるんじゃないかなと思ってます。

-まさに、理想を追いながら一つひとつ課題をクリアしていく生き方ですよね。ご結婚もされて、いろいろと背負うものもある中で、今こうして再び大きな挑戦ができている。その背景にはどんなことがあるのでしょうか?

原田氏:いや、もう「まわりに助けられてる」の一言です。会社員時代から、僕みたいなちょっとやんちゃなタイプを許してくれる環境があって(笑)。必ずどこかに引っ張ってくれる先輩がいて、理解してくれる上司やCxOレベルの役員がいて。多分、そういうキャラなので陰では結構嫌われてたと思うんですけど、全く気にしない才能がある(笑)。それでも「それ大事だよね」って言って背中を押してくれる人たちがいました。スタートアップを始めてからも同じです。投資家や、リスクを取ってくれる人たちがいて、M&Aもそうだし、とにかく自分一人では無理でした。あえて言うなら、大事にしてきたのは「フラットであること」と「誠実に話すこと」でしょうか。計算してそういう人間関係を築いてきたわけじゃないんですけど、気づいたら周囲に支えてくれる人たちがいて、今もまた新しい挑戦の場に立たせてもらってます。

CxOキャリアを目指す人へのメッセージ

原田氏:思ってる以上にリスクはないし、現状維持で平穏な人生を選んだことで後悔しそうだなって1ミリでも思うなら、何かに挑戦した方がいいです。その上で、飛び出してもリスクを感じずに済むようにするには、関係性や運の良さを上げておくことが大切だと思ってます。それさえあれば、リスクなんて実は存在しなくて、むしろチャンスしかない。だから、飛び込んだ方がいいと思います。もちろん大変ですけどね。ただ、僕はコンフォートゾーンに入ってしまうと、かえってやる気がなくなってしまうタイプで。メルカリ時代も、新規事業を4年やったあとに、経営戦略室に異動して、コーポレートの上流工程も経験させてもらいました。プロダクト畑の自分にとってはまったく違う世界でしたけど、あえてそこに飛び込んだことで、上場企業の戦略やガバナンスを学ぶことができたのは、経営者として本当に大きな糧になりました。だからこそ、これからCxOや起業家を目指す人には、自分が今いる場所にとどまらずに、あえて未知の領域へ一歩踏み出してみてほしい。リスクを恐れずに動いた先に、本当の成長と面白さが待っていると思います。
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